有田芳生 副幹事長の沖縄戦「うつろな目の少女」は男性、にフェイク疑惑

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2020年6月23日、立憲民主党の沖縄県県連会長の有田芳生 副幹事長が

「一枚の写真が物語ること「うつろな目の少女」 ~ 日本兵から殴る蹴るの暴行をうけ右目を失明した当時12歳だった男性が訴える、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」 – Battle of Okinawa 」

という過去のブログ記事をツイートされ拡散されています。

しかし、この「うつろな目の少女」は、いわく付きの画像のようです。

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一枚の写真が物語ること「うつろな目の少女」

 

「うつろな目の少女」は大城盛俊さんという男性?

有田芳生 副幹事長がご紹介されているブログは、何か特定の目的で書かれているブログのようです。

ブログには、次のように書かれています。

1945年6月21日。

米軍は一枚の写真を記録している。

青ざめ、呆然として診療所で傷の手当てを待つ1人の少女、後に「うつろな目の少女」として知られるようになった写真である。

そしてこれも後にわかったことは、この少女は、実は少年であり、また、この少年が受けた傷は日本軍の兵隊によるものだということだった。

日本軍の兵隊は、ガマで、小さな12歳の子どもが大切にしていたリュックの中の黒砂糖をよこせと言い、その子どもを壕の外に連れだし、殴る蹴るの暴行をくわえた。堅い軍の革靴でちからいっぱい蹴り飛ばされ、顔面を殴られた。この写真は、米軍の診療所で治療を受けたときのものである。日本兵に殴られた右目は失明した

AI でカラー化すると、背景にある収容所内の診療所の様子が見やすくなり、そしてなによりも、この小さな12歳の子どもが、日本兵からどれだけひどい殴る蹴るの暴行を受けていたのかもうかがわれる。

首からひものようなもので手をつっているのもよくわかる。特に鼻から右側の頬にみられる傷とあざは酷く、確かにこれで右目を失明するほどの残酷な暴行だったことがわかる。衣服も、後ろの診療所内の少年の着ているものと比較してほしい。

日本兵はこの小さな子を文字どおり半殺しにしたのだ。たったひとかけらの黒砂糖を奪うために。

(出典:Battle of Okinawa)

 

この「うつろな目の少女」という写真の少女は、実は少年であり、ひとかけらの黒砂糖を奪うために、日本兵がこの小さな子を半殺しにした、

という日本兵への憎しみを煽る内容に読めるブログです。

 

「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」、だそうです。

 

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元沖縄県知事の大田昌秀さんの「これが沖縄戦だ」(1977年)の表紙で紹介されている写真の少女の話です。

 

2007年8月25日の琉球新報の記事では、この少女は大城盛俊さんであると主張しています。

「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した
数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略) (深沢友紀)

(琉球新報 2007年8月25日)

 

この記事の「嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」という記述が、個人的にとても気になります。

 

少女の右目よりも右手のケガが気になる

「殴られた右目が失明した」という話が出てきますが、この写真をよく見ると、少女の右目はそれほどのケガのようには見えません。

それよりも気になるのは、少女が右手を首から紐のようなもので吊っていることです。

右手のケガが重傷のように見えます。

 

 

「うつろな目の少女」は玉那覇春子さんという女性

この日本兵の非道を訴える有田芳生 副幹事長のツイートには、フェイクを指摘するリプが付いています。

 

1985年8月12日の朝日新聞の「夏草の祈り・あの時子どもだった」という記事で、「うつろな目の少女」は玉那覇(たまなは)春子さんという女性であると書かれているようです。

 

※朝日新聞の記事「夏草の祈り・あの時子どもだった」はコチラのブログにあります。

米軍上陸から2ヶ月余りたった6月の初め、背走してきた日本軍が村に入り込み、「軍が使うから」と、家を追われた。父親はすでに防衛隊にとられており、母親は春子さんと妹を連れ、食料、衣類を手に、親類の人たちと一緒に村を出た。
「イモのくずを湯でといて飲み、飢えをしのぎながら、あちこちの防空壕を渡り歩いた。ちょうど梅雨で、雨にぬれながら、戦場を逃げ惑いました」

4日目に母が死亡
家を出てから何日目だっただろうか。大きなかわら屋根の家にたどりついた。避難民があふれ、仕方なく軒下で夜露をしのんだ。3日目に、その民家が直撃弾を受け、血の海となった。母は全身から出血し「水が飲みたい、水が飲みたい」と言いながら、ガジュマルの木下で4日目に息をひきとった。
春子さんは右腕とわき腹に負傷した。鉄の破片が入っていた。その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕をつってくれた。妹も両足に大怪我をした。どこをどう逃げまどったのか、気がついた時は、コザの野戦病院のベッドに横たわっていた。右腕は切断されていた。

(朝日新聞 1985年8月12日)

 

朝日新聞の記事によれば、玉那覇春子さんが日本軍に家を追われたのは事実ですが、負傷したのは避難した民家を直撃したアメリカ軍の砲撃が原因です。

元の家も子供の記憶ですから、実際は日本軍に「ここは戦場になる」と言われて避難したのかもしれません。

 

玉那覇春子さんは、右腕を負傷され、1985年の朝日新聞の記事の時点で義手を装着されていたそうです。

 

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まとめ

「うつろな目の少女」の写真の「男性説」についての疑惑は、過去にこのように複数のブログですでに検証がされています。

にもかかわらず、2020年になって何も知らない人たちに向けて、Twitterで怪しいブログ記事をシェアする立憲民主党の沖縄県連会長の有田芳生さんのネットリテラシーが、一番の問題ですね。

 

真実は、どちらでしょうか?

 

軍医に治療されたのに男女の区別がつかなかった、などということは考えられないですけどね?

 



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